マレーシアで過ごした日々のこと

僕は大学2年の前半の学期をマレーシアで過ごした。

 

発端は、関東のとある国立大学に一般入試で入学し、大学生活がどのようなものかという大枠がだんだん分かってくる一年生の7月に慌ただしく下した決断だった。思ったより面白くない大学の授業と(自分自身の怠惰さと、分散しすぎていた興味が原因だと思う)、未だ慣れない一人暮らしの中で、やれることならやろうという気概があったことは、よく覚えている(どうせ留学に行くなら早いも遅いも同じだろう、なら早いほうを選ぼう、といういかにも単純な決め方だったと今では思う)

 

マレーシアへの「滞在」。それは交換留学であったが(今は台灣に交換留学している)実質的には留学というよりは「研修」的な感じが優っていたな、と今では感じる。何故か。一つには圧倒的に受動的であったことと、幼すぎたことがあるだろう。英語をきちんとモノにしたい、という思いはあったが、正直な話、マレーシアに対してなにか特別な感情を抱いたことは、それまで一度もなかったのである(このように書くと本当によく決めたなと思う)。

 

しかし、その「研修」によって得たものは決して少なくなかったはずだと今ならいえる。一つには大事な出会いがある。ある人との出会い。それはそのことだけでその一年をフイにしたっていいというくらいには価値のあるものだったと僕は思う。その人は失敗の数も多いが、自身の哲学を持ち、自身の眼差しで世界を見れる人だった。勉強することでそういう風に生きられるんだ、と悟らせてくれたことは19歳の僕には新鮮すぎた。馬鹿なばかりのことに見えるこの世界に対して、そこまで実直に、「強く」生きられる。そのことは今でも僕の心の原動力である。だからか僕は帰国した直後は生意気にも、教育の価値と投資に気づけただけでも成果だったよ、というようなことを知った顔でフイていた。その後がスムーズでないことは禄に考えもせずに、だ。

 

もう一つの出会いは、やはり今の主要な関心である、中国、もちろん中華人民共和国だけに留まらない、「広義の」中国への興味をしっかり引き出すことができたということだろう。マレーシアは周知の通り、各民族がモザイク状に住み分けている。その中でも異彩を引くのが所謂「チャイマレ」(この呼称を嫌う人も多い)、マレーシア華人である。彼らは本当に背景が様々で、話す言葉もまた多様である。中華的な背景を持ちつつも、彼らはやはり通常は「マレーシア人」という枠から捉えられるものである。しかし、そのような国民国家という枠からの規定からは「漏れざるを得ない」のが移民や、移民に伴う“ぼやけた”ルーツを持つ人であろう。彼らはその好例である。別の民族とのコミュニケーション、また一種の「共通語」の必要性からマレーシアは英語の浸透度が非常に高いが、それはマレーシア華人にとっては幾つか扱える言葉の中で最も汎用的なものに過ぎないわけで、当然その捉え方は僕らとは異なるわけである。彼らはさも当然のように、親とは広東語若しくは閩南語を用いて話し、学校では普通語やマレー語を勉強し、大学に入ったら殆どの授業を英語かマレー語で受ける。そのような環境は正直いって自分には想像だにできない。全て日本語一つでなんとかなるのだから。僕はそのことに対し、ただ単純に、「マレーシア華人はスペックが高い」という色眼鏡でしか見れなかった。ある日旧友の一人が僕の言ったことに対して漏らしたコメントは忘れがたいが、それは「彼らにとっては日本語だけで何とかなるのは死ぬほど羨ましいんじゃないの」というものだ。その含意が、どこまで僕の浅はかさを透かしとっているかは定かではないが、少なくとも当時の僕にとっては衝撃であり、その後深く愧じることとなった。しかしいま考えてみれば、ハイスペックである、というのもまた事実だし、そのことを切り口にして考察できることもまた多いのではないか。

 

話しがそれすぎた。少し戻ると、かくも捉えきれない存在であるマレーシア華人も、もとを正せば中国人ある。そのことは僕に中国人のネットワーク、それは実際に存在しているんだ、ということをありありと見せつけ、また僕の中に沈んでいた、中国ないし中華への興味を駆り立てた。このことは大きかったと思う。大学1年が終わったばかりというホヤホヤすぎる時期をマレーシアでそのように過ごしたわけだが、これは早く留学に行く最大のメリットであったように思える。ホヤホヤの時期は何をしていいか分からない、つまりその分探りがい、卑近に言うとつまみ食いのしがいがある、ということだ。あれをやっとみたりこれに手を出したり、そういうことに対して腰を据えずに手を出せる自由な時間。それはとてもとても強調しきれない程に、貴重なものであったと思う。

 

そのようなわけで、謂わば「関心を温める」最初の時期がマレーシアでの生活であったといえる。あれは「留学」だったのかというと、あまり「留学」らしくなかったなと思う。むしろ、金(奨学金、非常に手厚いものだった)をもらって好きにしていただけの時間だったという感じしかない。事実、対してガツガツ勉強はしなかったし、帰国後大学の単位に読み替えをしたものも、誠に雀の涙というべき量であった。しかしその経験の自身に影響している所はどこか捉えきれなくて、それはうまく言葉にできないものかもしれないし、それはこれからの自身の考え方の「軸」を形成するのに役立っていて、ひょっとしたら至る所でその片鱗に出くわすのかもしれない。そのような意味で少なくとも、「中華」への関心を確固たるものとした点では、非常に意義深い滞在だったと言いたい。また、「中華」は東南アジアを視野に入れた概念で、それは中国を見る上での一つの批判的な視座となり得るのではないか、という去年あたりからずっと考えていることも、その祖型はここにある。