教養がある?

最近思ったこと。自分は所謂「日本人的」教養が著しく欠如しているのではないか、ということである。

 

ここでいう日本人的教養とは、即ち広く日本文化に関わることともいえるだろう。例えば桜。気心の知れた友人などと話していると、桜一つ取ってみても出てくる話題、話題の引き出し方が、やはり違うのである。そこに着目するのか、と言う意外さとともに、日本人でありながら話についていけないという、一種のコンプレックスのようなものに苛まれるのである。友人からこんくらい知っているだろう、ということで日本神話の話を振られた時も、ものの一部たりともピンとこなくて、参ってしまった。

 

ただ、少し落ち着いて考えてみると、そのような知識は割合、出自によるところが大きいのではないか、ということもあるだろうし、話している連中の文化資本が特に優れていただけ、ということも十分考えられる。そこで問題になってくるのは、これらの知識というものは通常、学校外で教えられるものであり、従って確実な必然性は持たないはずであるのにも拘らず、一定の人々の間では未だに「当たり前のこと」として機能している事実である。皮肉ながら、こういうことは「当たり前じゃない」からこそ見える側面がある(ブルデュ―なども、決して最初から凄まじい出自ではなかったはずだ)。

 

損得勘定などを除けば学校で教える/られることがすべてであり、従って持っている知識の総量(何について聞いたことがある程度であっても)に関してはある種の共通理解があると思っていたところにそれであった為、「役に立たない」ような知識が伝達されていることは素直に感心したし、そのメカニズムにも興味が湧いた。

 

一方で思うのは、やはりそのような観点からいうと自分は「教養がない」日本人ということになる、ということだ。しかしやや極端ではあるが、「教養のある・ない」はそれこそ時代によって振れ幅のあるもので、絶対視するべきではなかろう。一歩進んで、「誰が何を教養とするか」ということまで考えることは助けとなるであろう。◯は」教養である、と嘯く胡散臭い連中のいる一方で、現代とは「教養」の揺れる時代であるとも感じる*1。明治。大正。昭和前期。国家イデオロギーの強い時代には、「日本」の国民であることと、わたし/わたしたちを同定することは、差し迫った危機のない現代に比べればよっぽど「当たり前」のことだったはずであり、そこに神道国家というイデオロギーの機能する素地があり、それこそが国民国家日本の真面目であったともいえよう。

 

台湾での経験であるが、私の友人の一人は今時珍しい学問青年という成りであり、アニメや漫画の類はクレヨンしんちゃん位しか見たことがない、ということで、日本滞在中は時々話題に困ったという。ある人は彼に◯を見たことがあるか、問いて余りにも掠等なかったため、最後にはアンパンマンを振ってきたという(そして彼もアンパンマンすら知らなかったため始末が悪い)。

 このような事態は直接には、日本に興味を持っている層の少なからざるものがそれらを入り口としており、また日本人の側もそのような光景に慣れて、外国人に質問をするといえば決まってアニメ・マンガの話をふるために起こるのである。話をする時の食いつきの良さからいって悪い方法ではないが、それよりも、これは日本のアニメをある程度見ていること、またその内容を知っていること、それらから何かしらのインスピレーションを受け取ること、それらを少年・青年期等に経験しておくことがアジア圏のある国では既に半分常識と化していることをよく表していると思う。常識と教養とにはまた次元を異にする壁があると思うのであるが、このような事実は動かしようによっては何であっても「教養」になるのではないか、と思わせるには十分であった。

 

書きたいことが増えすぎたのでとりあえず中断。

 

 

 

*1:氏に関しては教養というもので枠を作り後は似たようなもので中身を埋めている感じが見て取れて好感はない。数年後にブックオフで大量に並んでいる姿が目に浮かぶ