言葉に対する感性

 台湾に来て早十月が過ぎさろうとしている。今日は授業の時間を間違えて早めに来てしまった。だからこうして図書館で捗らない勉強などを横目にしながら雑文に身を寄せているのである。

 さて、最近は少しく優れぬところがあった。それは体調の面でもそうだし(ずっと喉が痛いのは何なんだろう)、心の面でも少々。漠然とした不安が押し寄せる時期は、やはり誰しもあるものだと思う。楽しく暮らすことへの背徳。勤勉にも奔放にもなれない自分が己を苦しめる。しかし結局の所、己を信じ、着実に自分ならできるということをやり続け、それを自信の「種」にしていく以外に方法はない。誰しも強くはないのだ。そう騙し騙しやっていく他はない。

 このような時、やはり文章にする、言葉にする、というのは替え難い魅力を持つように思える。根っからの文学部人間であることもそうだが、自分との対話―などと言うと衒っている感じもするが、そうとしか言えない―の時間はやはり必要である。日々をシンプルにこなし、やることをやり、それが終われば寝る。それだけの生活はなんと面白味にかけるものだろう。まさに中国語でいう"沒有色彩"だ。中国語の表現というものは、日々の面白さを知らしめることに事欠かない。言語構造から違うこともあるが、やはり肝要は、同じモノ(漢字)を使っていながら、「ここまで違う」ことだろう。単純に訳せないことは多々あるし、文構造を汲んだ訳と意味ベースで訳したものでは装いが全然違うというのも一因であろう。

 

さて、改めて今日は日々思っている、言葉への感傷に対して書き連ねてみようと思う。

 

それは私達と「使う言葉」に関することである。使う言葉で人となりや教育の有無はある程度分かると嘗ては言われていたが(故に人によっては使う言葉が非常な意味を持ったのである)、最近、特に平成以降はどうもそうでない感じはある。これは現代的な生活の齎したものであることは確かであろうが、一つには人々の言葉への意識が絶えず変遷していることも関係しているであろう。『近代中国研究入門(新版)』は非常に勉強になる本であるが(たまに読むと叱咤激励してくれるという意味で)、かつての日本語は晦渋な漢語で意味を誤魔化すことが多かったが、その役割は今ではカタカナ語に受け継がれているという。その指摘は我々のような知識かぶれが思ってもいなかったものであり、また、「書かれたもの」一般に対する一貫した批判的眼差しを教えるものである。そう言うと確かに、昔の文章には徒に晦渋な語彙を多様していると見られるものも多い。その直後に引用されていた市古宙三氏の記述が的確そのものであった。曰く、難しい語彙で誤魔化すのは自身でも何を言いたいのか分かっていない為であり、学者の書く文章は平易な言葉で誤解のないように、そして日本語の品位を下げないように尽力するべし。

日本語の品位を下げない、このような意識は我々には最早、ない。曾ての人は立派であった等とは言いたくないが、やはりこの点は譲れないと思うのだ。思うに言葉には境界などなく、それは経験的に集合されたものから演繹的に言われているものに過ぎない。従って、経験そのものが変わってしまえば、言葉の境界そのものも、ぼやけ、霞むのは物の道理であろう。そして、その変化こそが我々と言葉というものを説明しうるものだと感じるのだ。

そのような意味では、使う言葉が(大まかに言って)エリートと非エリートに差がなく、平準化された現代の日本語は、どのように捉えられるのか。このように思うのも英語と中国語はこの点において大きく異なってるからである。この2つの言葉は、端的に言ってエリートの使う言葉とそれ以外が使う言葉が著しく分離している(若干のステレオタイプ的な認識であることは認める)。英語は古典語から受け継いだもの、中国語は所謂文言からの引用が多いほど、堅苦しく、読みづらい、従って晦渋なものとなる。中国語は大陸の方では相当簡単に「なった」感じがあるが、保守気味の台湾では未だに堅苦しく書くのが礼儀である。

私個人の考えとしては、時代の求めるものに合わせること、その言葉そのものの本質的な部分―人によっては「美」と言うかもしれない―を保つこと、この2つの方向性の中で保たれていくものでしかないと思っている。そして、分かりきっていることだが、言葉の運命というのはやはり我々にその手綱を握られている、そういうものなのだ。

 

加えて、「言葉は誰のものか」という問題がある。言語学習の界隈はネイティブ志向然り、多言語学習イキリ然り、その起伏は治まる処を知らないかのようである。ネイティブ志向の界隈等、その酷さは言うに耐えないが、私は根幹には「その言葉はその言葉で生きてきた人の独占物である」という意識があるように感じられる。確かにその言語をウン十年使ってきた人は、学びたての人よりは遥かに文法的な間違いが少なく、使う言葉が適切で、従ってより標準的であろう。然し、幾つか自然に思い浮かぶこともある。その言語「だけ」で生きてきた人はどうであるか、相対的な蓄積の有無だけではないのか、云々。私がこの手の議論に飽き飽きしている本当のところは、母語話者であることへの傲り、そして非母語話者への軽蔑、その偏った態度である。 

母語話者であってもその母語のことをよく知らないことは、幾らでもある。というのはある、日本語を熱心に学ぶ青年から教えられたことである。その意味では母語話者というのも結局の所、相対的に有利な地位にあるに過ぎない。その様に考えると、英語圏の東洋研究というのは凄い。漢字やひらがな等をみなアルファベットという共通の基盤から解釈し、その体系を作り上げたという、その熱意は心服して尚余りあるものだ。そのような熱意は最早、浅薄なネイティブ信仰等とは比べることはできない。

やはり肝要なのは「言葉は我々だけのものではない」という態度であろう。それでいて初めて同じ言葉を共通の基盤としたコミュニケーションが生まれるものだと思う。それからネイティブ信仰を捨てることである。仮にネイティブと同じになったとて、凡百のネイティブの言語能力だけが憑依した外国人、それほど魅力的であろうか。