新年度

さて、もう新年度であり、2月に帰国してからというものの早二ヶ月を迎えようとしているとは、改めて日々は着実に過ぎるものだと思わせる。

 

先月(3月)は公式の用事がほぼゼロだったので、いいだけ好き放題させてもらった。勿論、同期の連中達も卒業若しくは留年ということで、春という新しい季節への思いは各々変わる所こそあれ、皆共有するものだとは思う。私も同期たち(の一部)がもう働き始める、ということはやはりきちんと受け止めるべきだ、という重圧に晒されつつあるのであるが、これは延いては自身の「正当性」というものへの再考を促したようにも思う。

 

自分は何者か。それが仮に割合にきちんと定まっているとして、そこには必ず、「正当性」が存在しているように思える。噛み砕いて言うならば、今目の前のことをする十分な根拠がその人自身に宿っている(とされる)ことだろう。それは外向きには「この人はこのことを行うに適任である」と感ぜしめ、それは翻って「だからこそ私はこれこれこのことを行うのである」という行動に向かわせるのである為、それが上手く機能しているうちはいいだろうが、その反面少しでも狂うと、より根源的な部分、即ち「私とは誰か」にまで繋がってくる点で、慎重になる必要がある。

受験時代、滑稽な競争だとは思いつつも、社会的上昇というものを天秤にかけられてしまっては真面目に取組まねばならぬ、というような心持ちでいた気がするが、あれも今にして思えば「競争に勝利したものであり、相対的な優秀さは確保されている」という存在という、理由付けが必要だったのかもしれない。その後、受験という「高校までの勉強の成果」でしかない尺度を一方で絶対のものとしておきながら他方で奇想天外さを求めるその手のダブルスタンダードに辟易しながら得た結論は、自らの尺度をもつことである。早い話、「正当性」の確保を自ら行うことであり、よく言われる「根拠のない自己肯定感」を一定に保ち続けることであろう。これは人間が一人で生きられない以上、完全に独立して行うことは難しいかもしれないが、そのように試みることはできるはずである。

 

受験というのはそういう意味において、経歴(18,19で大学に入るやつの経歴なぞ鼻くそにも満たないが)の瑕疵のいかに少ないかを保証してやる(子供はそれがきちんと保証されるように頑張る)と言う側面が強い。なので極端な話、地方エリートというのはその地点においてもう敗れ去っているのである。慶応にエスカレーターする連中は、都内私立高校から東大法学部に行く連中に、逆上がりしても勝てないのである。そしてそのような国内エリートは、海外トップ校に対してなんとも言えない感情を抱くのであろう。自身はそのような熾烈(?)な世界とはあまり縁がないため断定はできないが大体そうだと思う。

 

閑話休題。自身の「正当性」と瑕疵の少なさで言えば、留年が予定されているので、一般的な就活的観点からすれば本来この時点でなかなかに駄目だと思う。しかし、一年や二年年を食っている、新卒でないから、などという取るに足らないことが「瑕」になるというのは、つくづく処女厨のようで薄ら嫌になる。企業的な合理性からすれば、「瑕」のないものがいいのだろうが、それがあまりに先行している嫌いがある。なので、「瑕」の多い連中、即ち「瑕」のない連中からすれば相対的敗者、は嫌でも、「自分が正当でない」ということを突きつけられるのであるが、それは余りにも形式主義ではないか。

本来、自分が誰であるかということは他人に決められるものではないだろう。自ら考え抜き、自ら結論を出し、自分を護るためのものであろう。そういう、根本が揺らいだままいい年になってしまう人は存外多く、脱サラする人等はその典型であろう。

 

22歳。自分がどのように生きていくか、また私を取り巻く環境がどう動いていくかはまだ判然としない日々であるが、これからの人生の「歩き方」―特にその足の動かし方―のは固まってきた気がする。それは門出を迎えた友人たちを見て感じたことでもある。ああ、こいつは多分こういうふうに生きていくんだろうな、というあの感じである。22歳とは、つくづくそういう歳なのだ。