教養がある?

最近思ったこと。自分は所謂「日本人的」教養が著しく欠如しているのではないか、ということである。

 

ここでいう日本人的教養とは、即ち広く日本文化に関わることともいえるだろう。例えば桜。気心の知れた友人などと話していると、桜一つ取ってみても出てくる話題、話題の引き出し方が、やはり違うのである。そこに着目するのか、と言う意外さとともに、日本人でありながら話についていけないという、一種のコンプレックスのようなものに苛まれるのである。友人からこんくらい知っているだろう、ということで日本神話の話を振られた時も、ものの一部たりともピンとこなくて、参ってしまった。

 

ただ、少し落ち着いて考えてみると、そのような知識は割合、出自によるところが大きいのではないか、ということもあるだろうし、話している連中の文化資本が特に優れていただけ、ということも十分考えられる。そこで問題になってくるのは、これらの知識というものは通常、学校外で教えられるものであり、従って確実な必然性は持たないはずであるのにも拘らず、一定の人々の間では未だに「当たり前のこと」として機能している事実である。皮肉ながら、こういうことは「当たり前じゃない」からこそ見える側面がある(ブルデュ―なども、決して最初から凄まじい出自ではなかったはずだ)。

 

損得勘定などを除けば学校で教える/られることがすべてであり、従って持っている知識の総量(何について聞いたことがある程度であっても)に関してはある種の共通理解があると思っていたところにそれであった為、「役に立たない」ような知識が伝達されていることは素直に感心したし、そのメカニズムにも興味が湧いた。

 

一方で思うのは、やはりそのような観点からいうと自分は「教養がない」日本人ということになる、ということだ。しかしやや極端ではあるが、「教養のある・ない」はそれこそ時代によって振れ幅のあるもので、絶対視するべきではなかろう。一歩進んで、「誰が何を教養とするか」ということまで考えることは助けとなるであろう。◯は」教養である、と嘯く胡散臭い連中のいる一方で、現代とは「教養」の揺れる時代であるとも感じる*1。明治。大正。昭和前期。国家イデオロギーの強い時代には、「日本」の国民であることと、わたし/わたしたちを同定することは、差し迫った危機のない現代に比べればよっぽど「当たり前」のことだったはずであり、そこに神道国家というイデオロギーの機能する素地があり、それこそが国民国家日本の真面目であったともいえよう。

 

台湾での経験であるが、私の友人の一人は今時珍しい学問青年という成りであり、アニメや漫画の類はクレヨンしんちゃん位しか見たことがない、ということで、日本滞在中は時々話題に困ったという。ある人は彼に◯を見たことがあるか、問いて余りにも掠等なかったため、最後にはアンパンマンを振ってきたという(そして彼もアンパンマンすら知らなかったため始末が悪い)。

 このような事態は直接には、日本に興味を持っている層の少なからざるものがそれらを入り口としており、また日本人の側もそのような光景に慣れて、外国人に質問をするといえば決まってアニメ・マンガの話をふるために起こるのである。話をする時の食いつきの良さからいって悪い方法ではないが、それよりも、これは日本のアニメをある程度見ていること、またその内容を知っていること、それらから何かしらのインスピレーションを受け取ること、それらを少年・青年期等に経験しておくことがアジア圏のある国では既に半分常識と化していることをよく表していると思う。常識と教養とにはまた次元を異にする壁があると思うのであるが、このような事実は動かしようによっては何であっても「教養」になるのではないか、と思わせるには十分であった。

 

書きたいことが増えすぎたのでとりあえず中断。

 

 

 

*1:氏に関しては教養というもので枠を作り後は似たようなもので中身を埋めている感じが見て取れて好感はない。数年後にブックオフで大量に並んでいる姿が目に浮かぶ

新年度

さて、もう新年度であり、2月に帰国してからというものの早二ヶ月を迎えようとしているとは、改めて日々は着実に過ぎるものだと思わせる。

 

先月(3月)は公式の用事がほぼゼロだったので、いいだけ好き放題させてもらった。勿論、同期の連中達も卒業若しくは留年ということで、春という新しい季節への思いは各々変わる所こそあれ、皆共有するものだとは思う。私も同期たち(の一部)がもう働き始める、ということはやはりきちんと受け止めるべきだ、という重圧に晒されつつあるのであるが、これは延いては自身の「正当性」というものへの再考を促したようにも思う。

 

自分は何者か。それが仮に割合にきちんと定まっているとして、そこには必ず、「正当性」が存在しているように思える。噛み砕いて言うならば、今目の前のことをする十分な根拠がその人自身に宿っている(とされる)ことだろう。それは外向きには「この人はこのことを行うに適任である」と感ぜしめ、それは翻って「だからこそ私はこれこれこのことを行うのである」という行動に向かわせるのである為、それが上手く機能しているうちはいいだろうが、その反面少しでも狂うと、より根源的な部分、即ち「私とは誰か」にまで繋がってくる点で、慎重になる必要がある。

受験時代、滑稽な競争だとは思いつつも、社会的上昇というものを天秤にかけられてしまっては真面目に取組まねばならぬ、というような心持ちでいた気がするが、あれも今にして思えば「競争に勝利したものであり、相対的な優秀さは確保されている」という存在という、理由付けが必要だったのかもしれない。その後、受験という「高校までの勉強の成果」でしかない尺度を一方で絶対のものとしておきながら他方で奇想天外さを求めるその手のダブルスタンダードに辟易しながら得た結論は、自らの尺度をもつことである。早い話、「正当性」の確保を自ら行うことであり、よく言われる「根拠のない自己肯定感」を一定に保ち続けることであろう。これは人間が一人で生きられない以上、完全に独立して行うことは難しいかもしれないが、そのように試みることはできるはずである。

 

受験というのはそういう意味において、経歴(18,19で大学に入るやつの経歴なぞ鼻くそにも満たないが)の瑕疵のいかに少ないかを保証してやる(子供はそれがきちんと保証されるように頑張る)と言う側面が強い。なので極端な話、地方エリートというのはその地点においてもう敗れ去っているのである。慶応にエスカレーターする連中は、都内私立高校から東大法学部に行く連中に、逆上がりしても勝てないのである。そしてそのような国内エリートは、海外トップ校に対してなんとも言えない感情を抱くのであろう。自身はそのような熾烈(?)な世界とはあまり縁がないため断定はできないが大体そうだと思う。

 

閑話休題。自身の「正当性」と瑕疵の少なさで言えば、留年が予定されているので、一般的な就活的観点からすれば本来この時点でなかなかに駄目だと思う。しかし、一年や二年年を食っている、新卒でないから、などという取るに足らないことが「瑕」になるというのは、つくづく処女厨のようで薄ら嫌になる。企業的な合理性からすれば、「瑕」のないものがいいのだろうが、それがあまりに先行している嫌いがある。なので、「瑕」の多い連中、即ち「瑕」のない連中からすれば相対的敗者、は嫌でも、「自分が正当でない」ということを突きつけられるのであるが、それは余りにも形式主義ではないか。

本来、自分が誰であるかということは他人に決められるものではないだろう。自ら考え抜き、自ら結論を出し、自分を護るためのものであろう。そういう、根本が揺らいだままいい年になってしまう人は存外多く、脱サラする人等はその典型であろう。

 

22歳。自分がどのように生きていくか、また私を取り巻く環境がどう動いていくかはまだ判然としない日々であるが、これからの人生の「歩き方」―特にその足の動かし方―のは固まってきた気がする。それは門出を迎えた友人たちを見て感じたことでもある。ああ、こいつは多分こういうふうに生きていくんだろうな、というあの感じである。22歳とは、つくづくそういう歳なのだ。

 

帰国+近況

台湾への一年の交換留学を先日終え、帰国してきたところで、この文章を今書いている。怠け者であることは重々承知しているものの、帰国してから早三週間の過ぎようとしている中、やっと記す運びとなった。今日は少しく、帰国前のあの心情であったり、帰国してからの感懐、そして新たな生活への所感でも綴ってみよう。

 

 まずは、帰国の直前にy一週間ほどブラブラし、また親しくしていた人々に対し暇乞いをする機会と時間を得たことは、良かったと思う。それによって得た気付きや話し込むことのdきたことは、実に良かった。又自身の「台湾経験」をきちんと言葉にしてまとめなければな、と思ったのもこの時期である。その時間は私にとって畢竟、如何なる意味を有するのか。それは私自身が以後の生活の中で咀嚼し、解釈していくべき性質のものであるはずだ。しかし、早い時期にその原型を言葉にしようと努めることも、又大事であろう。その一年は、日本でこれまでの人生の殆どを過ごしてきた私にとっては「非日常」に分類しうるもので、これまでの私を形成してきた「日常」にとっては、空白の期間である。だからこそ、きちんと”供養”してやる必要もあるように感じる。

 相応の別れも経験した。妙に不思議だったのは、別れそのものに対して愛着がなかったことであり、何処と無く、以後の生活も移動と別れの中で紡がれて行くのではないかとさえ、思われた。ただ、引っ越しなどにも言えることではあると思うが、一定の場所に長く居座ることを前提に計画を建てることは、どうも自分には不向きであるようだ。これまで渡り鳥のような生活をしてきたが、その中で得た感覚も、又無駄ではないであろう。

 

 帰国してからは、隔離生活が待ち構えていた。生憎大した監視体制もないため、それなりに過ごしたという以上はないが、ふと感じたのは、今次の世界的な感染症の流行という事件は、各国をしてその「癖」を表出させるに十分な機会ではなかったか。令和日本は、その行政面での弱みや好きなだけ削ってきた医療体制の脆さ、また「自己責任」論の登場に見舞われることとなったが、これは別の側面から言えば、今回の感染症が「この国ならこうなる」ということを測る非常に良い指標となった、とも言えるだろう。その点で上意下達の呼吸がよく通っている国家が、いわば勝者となり得た。そしてその呼吸は、民主主義を基盤とする国家体制は必ずしも保証しない、という証左でもあった。

ひとまずはこんなところであろう。

 

 

 

年の瀬

早いもので、2020年ももう直終わりを告げようとしている。今年は殆どを台湾で過ごしたが、本当に充実した時間を多く過ごしたように思える。タダでそれなりの額が降ってきて、込み入った心配事などもいくらかを除いては存在しなかったこともあるだろう。こういう時間を得る事ができた、これには感謝しかない。

その一方でやる事も見えてきた。視界が開けてきている。その様な確信がある。やはりその様な閃きはある程度の時間を経て初めて意識されるもので、この先何をし、何で食っていくのかは毫も定かではないものの、この様な感覚は大事にしていきたい。窮則變,變則通。来年以降にやることは少しは明確になった。

今年はある意味で「自らを知る」一年であった。幾多の人との交流、そして読書を通じた精神的な交流。それらは翻って自らはどの様な存在であるのかを知らしめる。それには一人で向き合うことと、外との交流を介すこととの2つの方法がある。今年はその面でその両方に恵まれたと言える。

人付き合いもそうだと感じる。自分をよく知らないで人のことが分かるだろうか。自分を愛せずに他人を愛せるだろうか。少なからぬ人々が歪んだ愛に溺れ、終いには身を滅ぼしてしまうというのも、その根源は自らを反省する事ができない(慌ただしい現代にあっては、その機会が容易には得られないという方が正しいかもしれない)ことに由来するのではと踏んでいる。知己知彼百戰不殆。やはり昔の人は本質を知っているなと思う。我軍のことすら知らずして戦に勝てるわけがないのだ。

そういう意味では現代人が「己に向き合う」時間はどんどん減ってきているんだろうなと感じる。僕が今こうして駄文をせっせと打ち込んでいるのも一つには気持ちを整理し、己と向き合おうとしているからだ。忙しく画一化された世界においてその様な暇はあるだろうか。ともすれば「どうでもいいもの」として片付けられがちなものであろう。

しかし、その反対、本当に「なくてはならないもの」は果たしてどれ程あるだろうか。今年のコロナ・ショックは(恐らくは)人為的でないという点で近年の恐慌では珍しいものだが、功罪決め難いのは「どうでもいいもの」を炙り出したことだろう。

社会を回すということにおいて「実はどうでもいいもの」は掃いて捨てるほどありふれていて、それは通常僕らの目には映ってこない。しかし一旦社会の機能が麻痺寸前に至り、最低限で回すしかない、となれば話は別で、そこで社会は一度「仕切り直し」を経る。そこらで「どうでもいいもの」がどの様にできているのか、どのように社会に嵌め込まれていたのかは、恐慌した政治家達の身振る舞いから容易に分かる。残念ながら日本のコロナ対策はまたしも「変われない国」日本という側面を滲み出してしまった。この局面にあって口だけだなく抜本的な対策を取れなかったことは遺憾でしかない。(本来なら一笑に付されかねない、既得権益の保護がミエミエな政策等は誠に汚点であろう)表面上はまともそうなことを言い、その実民の為には何もせず、おべっか使い共にいい顔をしているのは本当の政治であろうか。全ての人を救うことはできない。しかしみっともないものはみっともないと言うべきであり、言われた側はそれを反省の糧とするのが筋であろう。

 

閑話休題

 

己を知ることは自分の国、帰属するものに対しても改めて自らを定位していくことと無関係ではない。その意味では自分は「自分が思っている以上に日本人であった」(I was more Japanese than I thoughtの直訳。日本語にはこの様な言い方はない)。人はやはりその考え方のクセや身振り、文字の書き方、相槌にしてもその多くを自分の暮らしてきた文化に寄っている。その意味で私は少なくとも今までの人生の3/4以上を日本で暮らしてきたということから、「日本人」なのである。「言葉」が上手いことは集団への帰属を促す。そのような意味で私は「日本人として中国語を知っている」以上にはなれないのだ。外国語のネイティブを目指すということは、究極的にその様な葛藤と戦っていくことだと思う。だからそれを分けて考えているうちはまだ「楽しい段階」なのである。

さて、今年の気付きとしてはもう一つ、「一年は長い」というものがある。そう、長いのである。365日もあれば相当のことができる。別に毎日n時間決まって何かをしろ、とかではなく、単純にこれだけ時間があればそれなりの事はできる、そう気づかせてくれた。この確信はこれからも後押ししてくれるだろう。

 

実りの多い一年であったと思う。冀わん、コロナ騒ぎが収束し民生の安定せんことを。

言葉に対する感性

 台湾に来て早十月が過ぎさろうとしている。今日は授業の時間を間違えて早めに来てしまった。だからこうして図書館で捗らない勉強などを横目にしながら雑文に身を寄せているのである。

 さて、最近は少しく優れぬところがあった。それは体調の面でもそうだし(ずっと喉が痛いのは何なんだろう)、心の面でも少々。漠然とした不安が押し寄せる時期は、やはり誰しもあるものだと思う。楽しく暮らすことへの背徳。勤勉にも奔放にもなれない自分が己を苦しめる。しかし結局の所、己を信じ、着実に自分ならできるということをやり続け、それを自信の「種」にしていく以外に方法はない。誰しも強くはないのだ。そう騙し騙しやっていく他はない。

 このような時、やはり文章にする、言葉にする、というのは替え難い魅力を持つように思える。根っからの文学部人間であることもそうだが、自分との対話―などと言うと衒っている感じもするが、そうとしか言えない―の時間はやはり必要である。日々をシンプルにこなし、やることをやり、それが終われば寝る。それだけの生活はなんと面白味にかけるものだろう。まさに中国語でいう"沒有色彩"だ。中国語の表現というものは、日々の面白さを知らしめることに事欠かない。言語構造から違うこともあるが、やはり肝要は、同じモノ(漢字)を使っていながら、「ここまで違う」ことだろう。単純に訳せないことは多々あるし、文構造を汲んだ訳と意味ベースで訳したものでは装いが全然違うというのも一因であろう。

 

さて、改めて今日は日々思っている、言葉への感傷に対して書き連ねてみようと思う。

 

それは私達と「使う言葉」に関することである。使う言葉で人となりや教育の有無はある程度分かると嘗ては言われていたが(故に人によっては使う言葉が非常な意味を持ったのである)、最近、特に平成以降はどうもそうでない感じはある。これは現代的な生活の齎したものであることは確かであろうが、一つには人々の言葉への意識が絶えず変遷していることも関係しているであろう。『近代中国研究入門(新版)』は非常に勉強になる本であるが(たまに読むと叱咤激励してくれるという意味で)、かつての日本語は晦渋な漢語で意味を誤魔化すことが多かったが、その役割は今ではカタカナ語に受け継がれているという。その指摘は我々のような知識かぶれが思ってもいなかったものであり、また、「書かれたもの」一般に対する一貫した批判的眼差しを教えるものである。そう言うと確かに、昔の文章には徒に晦渋な語彙を多様していると見られるものも多い。その直後に引用されていた市古宙三氏の記述が的確そのものであった。曰く、難しい語彙で誤魔化すのは自身でも何を言いたいのか分かっていない為であり、学者の書く文章は平易な言葉で誤解のないように、そして日本語の品位を下げないように尽力するべし。

日本語の品位を下げない、このような意識は我々には最早、ない。曾ての人は立派であった等とは言いたくないが、やはりこの点は譲れないと思うのだ。思うに言葉には境界などなく、それは経験的に集合されたものから演繹的に言われているものに過ぎない。従って、経験そのものが変わってしまえば、言葉の境界そのものも、ぼやけ、霞むのは物の道理であろう。そして、その変化こそが我々と言葉というものを説明しうるものだと感じるのだ。

そのような意味では、使う言葉が(大まかに言って)エリートと非エリートに差がなく、平準化された現代の日本語は、どのように捉えられるのか。このように思うのも英語と中国語はこの点において大きく異なってるからである。この2つの言葉は、端的に言ってエリートの使う言葉とそれ以外が使う言葉が著しく分離している(若干のステレオタイプ的な認識であることは認める)。英語は古典語から受け継いだもの、中国語は所謂文言からの引用が多いほど、堅苦しく、読みづらい、従って晦渋なものとなる。中国語は大陸の方では相当簡単に「なった」感じがあるが、保守気味の台湾では未だに堅苦しく書くのが礼儀である。

私個人の考えとしては、時代の求めるものに合わせること、その言葉そのものの本質的な部分―人によっては「美」と言うかもしれない―を保つこと、この2つの方向性の中で保たれていくものでしかないと思っている。そして、分かりきっていることだが、言葉の運命というのはやはり我々にその手綱を握られている、そういうものなのだ。

 

加えて、「言葉は誰のものか」という問題がある。言語学習の界隈はネイティブ志向然り、多言語学習イキリ然り、その起伏は治まる処を知らないかのようである。ネイティブ志向の界隈等、その酷さは言うに耐えないが、私は根幹には「その言葉はその言葉で生きてきた人の独占物である」という意識があるように感じられる。確かにその言語をウン十年使ってきた人は、学びたての人よりは遥かに文法的な間違いが少なく、使う言葉が適切で、従ってより標準的であろう。然し、幾つか自然に思い浮かぶこともある。その言語「だけ」で生きてきた人はどうであるか、相対的な蓄積の有無だけではないのか、云々。私がこの手の議論に飽き飽きしている本当のところは、母語話者であることへの傲り、そして非母語話者への軽蔑、その偏った態度である。 

母語話者であってもその母語のことをよく知らないことは、幾らでもある。というのはある、日本語を熱心に学ぶ青年から教えられたことである。その意味では母語話者というのも結局の所、相対的に有利な地位にあるに過ぎない。その様に考えると、英語圏の東洋研究というのは凄い。漢字やひらがな等をみなアルファベットという共通の基盤から解釈し、その体系を作り上げたという、その熱意は心服して尚余りあるものだ。そのような熱意は最早、浅薄なネイティブ信仰等とは比べることはできない。

やはり肝要なのは「言葉は我々だけのものではない」という態度であろう。それでいて初めて同じ言葉を共通の基盤としたコミュニケーションが生まれるものだと思う。それからネイティブ信仰を捨てることである。仮にネイティブと同じになったとて、凡百のネイティブの言語能力だけが憑依した外国人、それほど魅力的であろうか。

 

マレーシアで過ごした日々のこと

僕は大学2年の前半の学期をマレーシアで過ごした。

 

発端は、関東のとある国立大学に一般入試で入学し、大学生活がどのようなものかという大枠がだんだん分かってくる一年生の7月に慌ただしく下した決断だった。思ったより面白くない大学の授業と(自分自身の怠惰さと、分散しすぎていた興味が原因だと思う)、未だ慣れない一人暮らしの中で、やれることならやろうという気概があったことは、よく覚えている(どうせ留学に行くなら早いも遅いも同じだろう、なら早いほうを選ぼう、といういかにも単純な決め方だったと今では思う)

 

マレーシアへの「滞在」。それは交換留学であったが(今は台灣に交換留学している)実質的には留学というよりは「研修」的な感じが優っていたな、と今では感じる。何故か。一つには圧倒的に受動的であったことと、幼すぎたことがあるだろう。英語をきちんとモノにしたい、という思いはあったが、正直な話、マレーシアに対してなにか特別な感情を抱いたことは、それまで一度もなかったのである(このように書くと本当によく決めたなと思う)。

 

しかし、その「研修」によって得たものは決して少なくなかったはずだと今ならいえる。一つには大事な出会いがある。ある人との出会い。それはそのことだけでその一年をフイにしたっていいというくらいには価値のあるものだったと僕は思う。その人は失敗の数も多いが、自身の哲学を持ち、自身の眼差しで世界を見れる人だった。勉強することでそういう風に生きられるんだ、と悟らせてくれたことは19歳の僕には新鮮すぎた。馬鹿なばかりのことに見えるこの世界に対して、そこまで実直に、「強く」生きられる。そのことは今でも僕の心の原動力である。だからか僕は帰国した直後は生意気にも、教育の価値と投資に気づけただけでも成果だったよ、というようなことを知った顔でフイていた。その後がスムーズでないことは禄に考えもせずに、だ。

 

もう一つの出会いは、やはり今の主要な関心である、中国、もちろん中華人民共和国だけに留まらない、「広義の」中国への興味をしっかり引き出すことができたということだろう。マレーシアは周知の通り、各民族がモザイク状に住み分けている。その中でも異彩を引くのが所謂「チャイマレ」(この呼称を嫌う人も多い)、マレーシア華人である。彼らは本当に背景が様々で、話す言葉もまた多様である。中華的な背景を持ちつつも、彼らはやはり通常は「マレーシア人」という枠から捉えられるものである。しかし、そのような国民国家という枠からの規定からは「漏れざるを得ない」のが移民や、移民に伴う“ぼやけた”ルーツを持つ人であろう。彼らはその好例である。別の民族とのコミュニケーション、また一種の「共通語」の必要性からマレーシアは英語の浸透度が非常に高いが、それはマレーシア華人にとっては幾つか扱える言葉の中で最も汎用的なものに過ぎないわけで、当然その捉え方は僕らとは異なるわけである。彼らはさも当然のように、親とは広東語若しくは閩南語を用いて話し、学校では普通語やマレー語を勉強し、大学に入ったら殆どの授業を英語かマレー語で受ける。そのような環境は正直いって自分には想像だにできない。全て日本語一つでなんとかなるのだから。僕はそのことに対し、ただ単純に、「マレーシア華人はスペックが高い」という色眼鏡でしか見れなかった。ある日旧友の一人が僕の言ったことに対して漏らしたコメントは忘れがたいが、それは「彼らにとっては日本語だけで何とかなるのは死ぬほど羨ましいんじゃないの」というものだ。その含意が、どこまで僕の浅はかさを透かしとっているかは定かではないが、少なくとも当時の僕にとっては衝撃であり、その後深く愧じることとなった。しかしいま考えてみれば、ハイスペックである、というのもまた事実だし、そのことを切り口にして考察できることもまた多いのではないか。

 

話しがそれすぎた。少し戻ると、かくも捉えきれない存在であるマレーシア華人も、もとを正せば中国人ある。そのことは僕に中国人のネットワーク、それは実際に存在しているんだ、ということをありありと見せつけ、また僕の中に沈んでいた、中国ないし中華への興味を駆り立てた。このことは大きかったと思う。大学1年が終わったばかりというホヤホヤすぎる時期をマレーシアでそのように過ごしたわけだが、これは早く留学に行く最大のメリットであったように思える。ホヤホヤの時期は何をしていいか分からない、つまりその分探りがい、卑近に言うとつまみ食いのしがいがある、ということだ。あれをやっとみたりこれに手を出したり、そういうことに対して腰を据えずに手を出せる自由な時間。それはとてもとても強調しきれない程に、貴重なものであったと思う。

 

そのようなわけで、謂わば「関心を温める」最初の時期がマレーシアでの生活であったといえる。あれは「留学」だったのかというと、あまり「留学」らしくなかったなと思う。むしろ、金(奨学金、非常に手厚いものだった)をもらって好きにしていただけの時間だったという感じしかない。事実、対してガツガツ勉強はしなかったし、帰国後大学の単位に読み替えをしたものも、誠に雀の涙というべき量であった。しかしその経験の自身に影響している所はどこか捉えきれなくて、それはうまく言葉にできないものかもしれないし、それはこれからの自身の考え方の「軸」を形成するのに役立っていて、ひょっとしたら至る所でその片鱗に出くわすのかもしれない。そのような意味で少なくとも、「中華」への関心を確固たるものとした点では、非常に意義深い滞在だったと言いたい。また、「中華」は東南アジアを視野に入れた概念で、それは中国を見る上での一つの批判的な視座となり得るのではないか、という去年あたりからずっと考えていることも、その祖型はここにある。

22歳

昨日に続いて軽く思いを書き連ねてみる。

 

来月僕は22歳になる。思えば21歳の日々は風のように過ぎていき、気づけば残り1ヶ月を切った。22歳といえばかぐや姫・風の「22歳の別れ」であるが、生憎僕にはそんな悲劇は起こりそうもない。しかし、22歳という歳に象徴される、「転機」のようなものがどこかそのタイトルには感じられるのだ。もう少年や少女の時代は過ぎ、自立した「大人」となることを求められる、そういう風潮がまだ確然と残っていたのではないか、そう感じさせるのである(「青春時代」の一節、「貴女は少女の時を過ぎ、愛に悲しむ女〈ひと〉になる」というのも共通しているだろう。そういえばこの歌は同棲時代の終わりを歌ったものである)。

 

21歳。初めて21歳を意識したのはマレーシアに滞在していた時期だったかもしれない。大学2年、19歳の僕は大学三年、四年で来ている人達に対して言い知れぬ断絶を感じていた。その断絶が20を境にするものなのかは分からない。そして去年、20歳の時は終わり、21歳を迎えた。20代の最初の一年が終わるというなんてことない感懐と、「ハタチ」とは二度と言えないことへの一抹の寂しさを感じていたのだった。あれから一年。22歳とは先程も書いたとおり、40年前は確かに「転機」であった。それは今でも多少感じるところはあって、例えば今見ている森昌子さんの動画のコメントでも「22になってから円熟みが増してきた」というものなど、嫌でも目についてしまう。確かにな、とも思いつつ、映像の中の歌手達はものすごく、届きようもないくらい大人びて見える。この一年で然るべき成長はあったか、このことに関して焦りに似た感情がまた騒ぎ出す。

 

その転機であるが、自分はこの先何をして、何を信じて、何を楽しみに生きていくのか、ということに関しては未だ茫漠としたままだ。そのこと自体は別段悪いことではないのかもしれないが、決まっていないことと、もう少しこのまま夢を見させてくれ、という感情が行き違う。少なくとも将来どこかのタイミングで大学院に入り学修を深めたいという思いと、中国・台灣・東南アジアという、この自分とは切っても切り離せない場所について、もっと知りたいという思いはある。これらがどうまとまっていくのかは分からないが、温めておきたいと思っている。

 

思っていたよりも大学4年は何も知らないまま迎えたし、終わりが迫るのもずっと早い。来年も大学にいることは確定しているが、5年もいたからには成果を目に見える形で結晶させたいと思う。21歳が終わる僕の、細やかな抱負である。