久々に+中国語について

こんにちは。いつぶりだよとツッコまれるかもしれませんが、久々に色々書き連ねたくなったのでまた来てしまいました。

 

ふと思うのは、日本語でまとまった量の文章(真面目な内容かどうかを問わず)を書くことって意外とないよな、ということで、最近は専ら中国語ばっかに接していて、少し自分の言葉に対して疎かにしていた嫌いがあったことが大きい。これから定期的に雑文でも書いていこうかしら。

 

まず、モヤっとしてることから入ると、自分の中での中国語を学ぶ、ということがよりハッキリしてきた、より正確に言えば、輪郭を立ち表してきたかな、という感じがある。それは来た当初は余りにも何もなさすぎた、というのもあるけれど、一つにはそれなりに安定した基盤ができた事がまず、そう思えるようになった背景にはあると思う。それによってより直接的に探れるようになったというか。そう考えるとこの半年ちょっとの期間はまるまる準備だったんだな、とか、自分のしてきたことに対しても冷静に評価できるようになった気がするのだ。

 

さて、中国近現代史を勉強するには四の五の言わず中国語はできないと先はない、というのは火を見るよりも明らかなこと。でも台灣での生活(授業いって本読んで友達とご飯食べてたまに女の子とお茶して)を通して「中国近現代史を勉強する為に中国語を勉強する」という当初の最低限の目的に対しては相当程度、胸を張って達成している、と言えそうだ。(ここに来る前は初級の本を終えただけで来るというなかなかの暴挙だったことを考えれば、なかなかよくやっているとも思える。)

 

ただ、やはり単純じゃないのは、中国語という「大きい言語」を学んでいる、ということにどう向き合っていくか、ということが常につきまとうからだと思う。東南アジア華人の親友は、反中国の立場から(言語文化面での)台灣の保守的な態度を絶賛するが、実は台灣人の側としては「中国語」に対しては歯痒い思いがあるわけで、それは特に「私は中国人ではない」というアイデンティティが若者を中心に広まっていくなかで再解釈されていくのだろう。その一方では中華文化に対して「告別した」中国の中国語というものがあって、「中国語を学ぶ」ことは即ち「中華人民共和国の言語」を学ぶことである、というのは一つのスタンダードとして揺るがない地位を有している。

 

確かにこのスタンダードは圧倒的な数の多さ、主張の強さ、その実績(やり方の問題も大きいと思う)から見れば相当の説得力を持つ。しかし、自分は、またこの台灣という島に暮らしている人々は少なくともそれとは違うスケールを持っていて、その実「こちらの方が正しい」という意思表示ではこちらの方が何倍も上手なのだ。これは正直な話、その方面に鋭くないと一生気づかないようなものだとは思う。しかし、確実に存在する違い。そのことは少なくとも単純明快に「中国語=簡体字、北京標準、而化音」と割り切ってしまうような価値観から僕を遠ざけたと思う。

 

これらは究極的には政治への立場から来るものだろう。ここまで分かりやすく分かれてしまったのも、なんというか、壮観だ。ではそのような政治の立場から一歩引いて見るにはどうしたらいいか。やはり一歩外に出ること、具体的には別の地方から見張ることだろう。 その意味では東南アジアと日本は格好の場所だと思われる(韓国も?)。それは華人の多さと、台灣・中国との関係の深さからだ。華僑華人に関しては基本的なことは勉強したが、やはりその奥深さは目を見張るものがあって、また政治と歴史の中で、その影響を受け続けてきた存在であるとも言える。そして、もちろん全てが一様ではないこと、これは特に一様であることが一つの標準である日本人には刺激的である。広義の中国人なのに標準中国語が喋れない。これは特に珍しくもない。そのような彼らからすれば、標準中国語というのは、「学ぶべき対象」であり、英語のようにそれを用いてより多くの人と交流するという意味では「共通語」の一つでもある。これは個人的には、「もともと標準中国語を喋ってきた人達」に対して最もよく考えてもらいたいもので、またこの観点を用いることで、標準中国語というものを「より自由に」解き放つことができると考えている。この意味では中国と台灣間での政治闘争の道具の一つに中国語を置いてきた台灣側にも責任はあるわけで、やはり単純化の弊から免れるには外の視点が必要であろう。(中国大陸も実は細かく見るとまだ国民国家建設というところではまだまだな所があって、グラデーションの濃淡はまだ日本などの比ではない。中国大陸で標準中国語を学ぶ華人達に関しても気になる次第である。)

 

それなりに書いてしまったが、やはり強調したいのは中国語を学ぶこと、それは単純には割り切れない部分が多すぎるということで、その「言語の大きさ」に向き合う必要があるんじゃないか、ということである。